Q3-4. 戦後(朝鮮解放後)の真相究明・責任追及はどのようになされたのですか?
A.1945年8月に、植民地支配から解放された在日朝鮮人は、祖国である朝鮮半島への帰国運動を進めるとともに、関東大震災時の朝鮮人虐殺の真相究明・責任追及に尽力します。解放前から調査事業は行われていたものの、戦時体制下で虐殺問題について語ることは困難でした。いわば、朝鮮解放は、20年以上を経てようやく訪れた、真相究明と国家責任追求の好機であったといえます。
ただ、調査事業の主体となったのは、やはり在日朝鮮人自身でした。とりわけ、在日朝鮮人連盟(朝連)といった解放後に設立された民族団体は、震災追悼行事の実施や慰霊碑の建立の中心的な役割を果たしました。なかでも、1947年4月に、朝連千葉県本部によって建立された「関東大震災犠牲同胞慰霊碑」には、虐殺対象が朝鮮人であること、日本の国家責任が明記されたという点において、注目に値します。逆に、そうした内容を含んだ慰霊碑は非常に少なく、多くの場合「虐殺」と記載されず、責任主体が曖昧にされてしまったのです。
日本人による関東大震災時虐殺事件の真相究明・責任追及は、事件から40周年にあたる1963年から行われていきます。解放前・直後とは異なり、これまで全ての役割を担っていた在日朝鮮人と日本人が共同となり、朝鮮人犠牲者の追悼行事の開催をはじめ、調査研究及び報告書・調査書の刊行が進められました。
また、虐殺の現場となった地域では、墓碑・追悼碑が建立され、虐殺された朝鮮人を慰霊する動きも強まりました。たとえば、1993年に発足した「グループほうせんか」によって、朝鮮人虐殺は日本の軍隊・警察・民衆によって引き起こされたことを明記した追悼碑を建立されました。
解放後から発展をみせたこの運動ですが、一方で課題もありました。調査の主体は常に在日朝鮮人であったこと、共同で建てられた墓碑・追悼碑に、虐殺者に関する記載が一切なかったり、地域住民への配慮のため虐殺の責任が誰なのかが曖昧にされる/せざるを得ないことなどの課題が残されました。このように、震災時の朝鮮人虐殺の真相を明らかにし、虐殺の責任を追求することに、どれだけの困難を伴ったのか、そしてその原因は何故か、私たちは考える必要があるのではないでしょうか。