証言―金天海

震災の時私は本郷の本富士警察署の管内に住んでいて、休止に一生を得た一人である。負傷して悲鳴を上げる多数の同胞や、虐殺されて道路に死体が転がっている光景が今でも目に浮んでくる。

血に植えた狼の如く、彼等は軍隊を先頭に在郷軍人、青年団、自警団という風なものが銃剣を振りかざし、或は竹槍、ビール瓶など手当り次第凶器を持ち出して、多数の朝鮮人、中国人を始め自国の革命運動者も或はこれを銃殺し、或はこれを刺殺するなど、その虐殺を恣いままにした。その中でも最もひどかったのは刀で眼玉をきり抜き、鼻や耳などを切りとるなど、残忍その極をきはめ、或は妊婦の腹を衝きさしてその中の胎児を殺害するなど、あらゆる手段を以て惨虐の限りを尽しておった。

こうしたテルロは、関東一帯にわたって行われ、このために理由もなく無惨に殺された朝鮮人はその数六千数百名、中国人数百名で、負傷者を入れると数万名にのぼる。殺される原因は全く何らの根拠理由もないのであって、一例を挙げれば、井戸に毒を投じたという朝鮮人がつかまり針金で縛られて殴打暴行を受けていたが、これは実はその人が震災のため水道が破裂して、水が飲めないために、井戸水をさがしていてつかまり、さんざんテロを受けたのである。私は警察官と出会い、その井戸水を飲まされたが、何の毒もなかったのである。

かようにことごとく事実でないことをいいふらして朝鮮人を虐殺したが、憎むべきことは当時警保局長が、長崎県の知事にあたえた指令の中に、朝鮮人が来たら機宜の処置をとれ、という命令があり、また内務省当局は、軍隊が九月三日の夜から各所で虐殺行為をおこし、それがその後いく日もつづいたのに拘らず何等の処置もとらなかったのである。そしてやっと朝鮮の人々や外国からの申入れによって、始めて形式的な虐殺禁止令が漸く出たにすぎない。

尚戒厳令が布かれ、朝鮮同胞の罹災したもの並びに負傷者に対する救護事業も禁止される有様であった。

【出典】朝鮮大学校『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』(1963年)