※証言には、虐殺と関連する表現が含まれますので、閲覧の際はご注意ください。
<目次>
- 李鐘応(リ・ジョンウン)/ 東京都台東区
- 金天海(キム・チョネ)
- 愼昌範(シン・チャンボム)/千葉県松戸市
(随時更新予定)
李鐘応(リ・ジョンウン)/ 東京都台東区
「そして呉、大阪、名古屋等の飯場や山梨県早川の近くの発電所ダム工事場を歩いて一九二二年の四月に東京にやってきました。七月から本郷の区役所の臨時雇になり、一〇月からは日比谷公園の掃除夫として働いていました。九月一日は丁度公園の仕事が休みだったので、その日を利用して上野広小路の市電敷設工事に出て働いていました。十二時二分前、突然地震がおそってきました。電車が倒れ家も倒れ方々で火災が起りました。私は夢中で雑司谷の螢雪寮(朝鮮人学生寮)に帰りました。一晩中地震がつづき、弟と甥がどうなっているのかと心配して私を探しにきました。
翌日の一時前、食堂に昼飯を食べに行こうとすると、朝鮮人を手あたりしだいに殺しているといううわさが聞えてきました。それで私達は一歩も外に出ることも出来ず部屋の中にとじこもっていました。
夜になりあまりむし暑いので家の前にゴザをしきそこでみな寝ることにしました。真夜中になって二、三〇名の自警団が手にトビや日本刀等を持って「朝鮮人やっちまえ!」といって飛びかかってきました。丁度そこには隣組の青年団長である佐々木某がいて、「この人達は学生でみな真面目な人だから殺してはいけない」といって私達をかばってくれました。こうして押問答をしているうちに武装した兵隊がトラックでやってきて、自警団を押しのけ私達をトラックにのせ巣鴨の刑務所に送り込みました。私達は全部二一、二名いました。私達全員は一列にならばされ、剣付鉄砲をもった兵隊が一人一人厳重にとりしらべました。銃殺するための点検のように思われ気が遠くなりました。しかしどうしたわけか翌三日又トラックに乗せられて螢雪寮に送り返えされました。何日かたって朝鮮人虐殺のニュースが続々と伝わってきました。本所の深川、亀戸で大量に虐殺され、月島等でもむごたらしく殺されました。
月島には私も働いたことのある飯場があって、そこには二〇人程の朝鮮人がいましたがそのうち一九人は虐殺されました。あとで聞いた話ですが飯場にいた朝鮮人一人は壁にハリツケにされました。生きのびた一人は私の友人で開城の出身であります。彼は大変日本語がうまく生きのびることが出来ましたが、彼は日本人のまねをしてはちまきをし、日本人のような顔をしていたので殺されずに済んだとのことです。本所公会堂の前でも一〇名が殺されました。
三〜四日後、日比谷公園に行きました所、市川主任が外に出れば殺されるといって私を倉庫の中に入れました。それは少し前に自警団がやってきて朝鮮人を出せと市川主任につめよったことがあったのでそうしたのです。私は倉庫の中で一週間程過しました。」
金天海(キム・チョネ)
「震災の時私は本郷の本富士警察署の管内に住んでいて、休止に一生を得た一人である。負傷して悲鳴を上げる多数の同胞や、虐殺されて道路に死体が転がっている光景が今でも目に浮んでくる。
血に植えた狼の如く、彼等は軍隊を先頭に在郷軍人、青年団、自警団という風なものが銃剣を振りかざし、或は竹槍、ビール瓶など手当り次第凶器を持ち出して、多数の朝鮮人、中国人を始め自国の革命運動者も或はこれを銃殺し、或はこれを刺殺するなど、その虐殺を恣いままにした。その中でも最もひどかったのは刀で眼玉をきり抜き、鼻や耳などを切りとるなど、残忍その極をきはめ、或は妊婦の腹を衝きさしてその中の胎児を殺害するなど、あらゆる手段を以て惨虐の限りを尽しておった。
こうしたテルロは、関東一帯にわたって行われ、このために理由もなく無惨に殺された朝鮮人はその数六千数百名、中国人数百名で、負傷者を入れると数万名にのぼる。殺される原因は全く何らの根拠理由もないのであって、一例を挙げれば、井戸に毒を投じたという朝鮮人がつかまり針金で縛られて殴打暴行を受けていたが、これは実はその人が震災のため水道が破裂して、水が飲めないために、井戸水をさがしていてつかまり、さんざんテロを受けたのである。私は警察官と出会い、その井戸水を飲まされたが、何の毒もなかったのである。
かようにことごとく事実でないことをいいふらして朝鮮人を虐殺したが、憎むべきことは当時警保局長が、長崎県の知事にあたえた指令の中に、朝鮮人が来たら機宜の処置をとれ、という命令があり、また内務省当局は、軍隊が九月三日の夜から各所で虐殺行為をおこし、それがその後いく日もつづいたのに拘らず何等の処置もとらなかったのである。そしてやっと朝鮮の人々や外国からの申入れによって、始めて形式的な虐殺禁止令が漸く出たにすぎない。
尚戒厳令が布かれ、朝鮮同胞の罹災したもの並びに負傷者に対する救護事業も禁止される有様であった。」
愼昌範(シン・チャンボム)/千葉県松戸市
私は、一九二三年八月二〇日、日本観光の目的で、十五名の同僚と共に、下関に上陸しました。そして、関西方面を廻り、八月三〇日、東京に着き、上野の昭和館に泊りました。
九月一日、昼食をとっている最中に、地震に会いました。生れて始めての経験なので、階段からころげ落ちるやら、わなわなふるえている者やら、様々でした。
私は二回から外へ飛びおりました。一面、火の手が広がり、道もわからなくなり勿論食べ物を売っているお店などありません。そこで、私たちは向島の吾嬬町で飯場を経営している尹在文氏を尋ねることにしました。やっとの思いで、夜遅く吾嬬町へ着きましたがそこも一面火の海でした。しかし、尹氏の家附近まではまだ日が回っていなかったので、その晩は尹氏の家に泊めてもらいました。翌二日は、火の手を逃がれてあちこちと避難するのがやっとでした。兵隊の配ってくれる玄米のにぎり飯で、飢えをしのぎました。
三日の夜、九時頃になって、「津波がやってくるぞ!」と怒鳴りあう声が、あちこちで聞こえ、人々は、その辺では一番高い荒川の堤防へ避難しました。私達が行ったのは、京成電車の鉄橋のある近くでした。堤防の上は、歩くことも困難なほど避難民でいっぱいでした。私達は、いつのまにか鉄橋の中程の所まで、人波の為に押し込まれてしまいました。結局、津波はやってきませんでしたが、疲れたので私達は、その儘線路を枕にしてやすみました。
四日の朝、二時頃だったと思います。うとうとしていると「朝鮮人をつまみ出せ」「朝鮮人を殺せ」などの声が聞こえました。私には、どうして朝鮮人を殺すのか、さっぱり見当がつきませんでした。朝鮮人が悪いことをしたと云うけれど、地震と大火の中では、逃げ惑うのがやっとで、中には焼け死んだ人もずいぶんいたのです。こんな時、人間は生き延びることだけが精一杯で、悪いことなど出来る筈がありません。間もなく、向こうから武装した一団が寝ている避難民を、一人一人起し、朝鮮人であるかどうかを確め始めました。私達十五人の殆どが日本語を知りません。そばに来れば、朝鮮人であることがすぐに判ってしまいます。武装した自警団は、朝鮮人を見つけるとその場で、日本刀をふり降し、又は鳶口で突き刺して虐殺しました。一緒にいた私達二十人位のうち自警団の来る方向に一番近かったのが林善一という荒川の堤防工事で働いていた人でした。日本語は殆んど聞きとることができません。自警団が彼の側まで来て何か云うと、彼は私の名を大声で呼び「何か言っているが、さっぱり分からんから通訳してくれ」と、声を張り上げました。その言葉が終るやいなや自警団の手から、日本刀がふり降ろされ彼は虐殺されました。次に坐っていた男も殺されました。この儘坐っていれば、私も殺されることは間違いありません。私は横にいる弟勲範と義兄(姉の夫)に合図し、鉄橋から無我夢中の思いでとびおりました。
とびおりてみると、そこには、五、六人の同胞が、やはりとびおりていました。しかし、とびおりた事を自警団は知っていますから、間もなく追いかけてくることはまちがいありません。そこで私達は泳いで川を渡ることにしました。すぐに明かるくなり、二〇~三〇米離れた所にいる人も、ようやく判別できるようになり、川を多くの人が泳いで渡っていくのがみえました。さて、私達も泳いで渡ろうとすると、橋の上から銃声が続けざまにきこえ、泳いで行く人が次々と沈んでいきました。もう泳いで渡る勇気もくじかれてしまいました。銃声は後を絶たずに聞こえます。私はとっさの思いつきで近くの葦の中に隠れることにしました。しかし、ちょうど満潮時で足が地につきません。葦を束ねるようにしてやっと体重をささえ、わなわなふるえていました。しばらくして気がつくとすぐ隣りにいた義兄のいとこが発狂し妙な声を張りあげだしました。声を出せば私達の居場所を知らせるようなものです。私は声を出させまいと必死に努力しましたが無駄でした。離れてはいてもすでに夜は明け、人の顔もはっきり判別できる程になっています。やがて三人の自警団が伝馬船に乗って近ずいてきました。各々日本刀や鳶口を振り上げ、それはそれは恐しい形相でした。死に直面すると、かえって勇気が出るものです。今迄の恐怖心は急に消え、反対に敵愾心が激しくもえ上りました。今はこんなに貧弱な体ですが、当時は体重が二十二貫五百もあって力では人に負けない自信を持っていました。ですから「殺されるにしても、俺も一人位殺してから死ぬんだ」という気持で一ぱいでした。私は近ずいてくる伝馬船を引っくり返してしまいました。そして川の中で死にもの狂いの乱闘が始まりました。ところが、もう一隻の伝馬船が加勢に来たので、さすがの私も力尽き、捕らえられて岸まで引きずられていきました。
びしょぬれになって岸に上るやいなや一人の男が私めがけて日本刀をふり降ろしました。刀をさけようとして私は左手を出して刀を受けました。そのため今見ればわかるようにこの左手の小指が切り飛んでしまったのです。それと同時に私はその男にだきつき日本刀を奪って振り回しました。私の覚えているのはここまでです。
それからは私の想像ですが、私の身に残っている無数の傷でわかるように、私は自警団の日本刀に傷つけられ、竹槍で突かれて気を失ってしまったのです。左からのこの傷は、日本刀で切られた傷であり、右脇のこの傷は、竹槍で刺された跡です。右頬のこれは何で傷つけられたものかはっきりしません。頭にはこのように傷が四か所もあります。…荒川の土手で殺された朝鮮人は、大変な数にのぼり、死体は寺島警察署に収容されました。死体は、担架にのせて運ばれたのではなく…二人の男が鳶口で、ここの所(足首)をひっかけて引きずっていったのです。私の右足の内側と左足の内側にある、この二か所の傷は私が気絶したあと警察まで引きずっていくのにひっかけた傷です。…九月末になって、自分で歩ける者は千葉の習志野収容所に移され、私のような重傷者は残されました。」
【出典】朝鮮大学校『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』(1963年)