<目次>
- 1.関東大震災時の朝鮮人虐殺
- 2.朝鮮人虐殺の歴史的背景
- 3.朝鮮人虐殺のその後
- 4.くり返される虐殺と迫害
1.関東大震災時の朝鮮人虐殺
Q1-1.「関東大震災時の朝鮮人虐殺」とは何ですか?
A.1923年9月1日午前11時58分にマグニチュード7.9の大地震(関東大震災)の直後から発生した、「朝鮮人が殺傷・略奪・放火した」、「朝鮮人と社会主義者が放火した」、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」といった流言が官憲によって流布され、6000名以上の朝鮮人らが虐殺されました。その過程で700名以上の中国人らも殺され、社会主義者、障害者など日本人も犠牲になりました。
関東大震災時の朝鮮人虐殺は、朝鮮植民地支配の下で、官民一体となり日本の軍隊・警察・自警団が行ったジェノサイドでした。
朝鮮人を蔑視・敵視する虐殺は凄惨を極め、日本刀、竹槍、木刀、鳶口の武器が使われ、殴殺、刺殺、焼殺などで虐殺が行われました。興奮した自警団や群衆が警察によって収容されていた朝鮮人を奪い取り、虐殺することもありました。また女性には性的虐待が加えられ、子どもや日本人の家族まで殺されました。
※目撃者の証言(横浜市/田畑潔氏)
「グルリと朝鮮人をとり囲むと、何ひとついいわけを聞くのでもなく、問答無用とばかりに、手に手に握った竹ヤリやサーベルで朝鮮人のからだをこづきまわす。それも、ひと思いにバッサリというのでなく、皆がそれぞれおっかなびっくりやるので、よけいに残酷だ。頭をこずくもの、目に竹ヤリを突き立てるもの、耳をそぎ落とすもの、背中をたたくもの、足の甲を切り裂くもの…朝鮮人のうめきと、口々にののしり声をあげる日本人の怒号が入りまじり、この世のものとは思われない、凄惨な場面が展開した。」
Q1−2.虐殺は自警団が勝手に行ったことではないのですか?
A.デマの発生後、日本政府は朝鮮人暴動の事実がないにもかかわらず、「戦時もしくは事変に際して出される非常法」として戒厳令をすぐさま布告しました。軍隊は近衛師団・第一師団をはじめ、仙台、宇都宮など他の師団からも東京に出兵しました。戒厳令下の軍隊は、多くの朝鮮人を殺しました。
内務省は海軍東京無線電信所船橋送電所から各地方長官あてにデマが事実であるかのように断定し、「鮮人の行動に対して厳密なる取締」を呼びかけ、町村当局者と在郷軍人会、消防隊、青年団等に指示しました。
警察官も「各町で不平鮮人が殺人放火して居るから気をつけろ」(『報知新聞』1923年10月28日付夕刊)、「朝鮮人を殺しても差し支えない」(『東京日日新聞』同10月22日付夕刊)などとデマを流布し、虐殺を拡げていきました。
こうしたなか、日本人民衆は官憲が朝鮮人虐殺を公認したと考え、虐殺を繰り広げていきました。日本政府、官憲の指示や行動は民衆に対して「天下晴れての人殺し」としての意味を持たせたのでした。
Q1−3.日本人民衆は虐殺をどのように考えたのですか?
A.日本人民衆は、朝鮮人「暴動」のデマに接すると、とても迅速に多くの自警団を組織・強化し、虐殺を行います。多くの日本人民衆が虐殺に加担した原因は、朝鮮に対する敵視、民族差別意識、「不逞鮮人」観があり、また「お上の言うことにはまちがいはない」と考え、国家と幻想的な一体感をもつ強力な国家意識がありました。さらに「町のため村のため」といった町村共同体意識も虐殺と関係していました。
朝鮮植民地支配の下で、朝鮮人虐殺を合理化、正当化する日本人民衆たちの心理は虐殺を一層、大規模で、凄惨なものとしたのでした。
朝鮮人を虐殺した自警団、民衆がその責任と正しく向き合うことはありませんでした。たとえば、虐殺直後の1923年10月に結成された関東自警同盟は、朝鮮人「暴動」は事実であると認定した上で、「鮮人襲来の虞(おそ)れあり。男子は武装せよ。…鮮人と見れば倒しても差支えない」などと官憲が触れ回ったにもかかわらず、その責任を国家が自警団に負わせようとしていると主張しました。さらに「自警団の傷害罪は尽くこれを免ずること」、「自警団の殺人罪は尽く異例の恩典に浴せしめて採決すること」など自警団の罪を免責することを「決議」しています。
実際に裁判でも被告人らは「当時は秩序が紊(みだ)れていましたから、国家のためと思いまして」(浦和地裁)、「一太刀浴びせて殺したが、国家を思うためにやったのだ」(千葉地裁)と述べています。虐殺をした民衆責任を民衆自らが向き合うことはありませんでした。
Q1−4.朝鮮人虐殺においてメディアにはどのような責任があるのでしょうか?
A.日本のメディアは、デマと虐殺を広げ、虐殺を正当化する報道を続けました。新聞により日本の各地でもデマが事実として伝えられ、地方の在日朝鮮人も厳しい迫害を受けました。例えば、仙台市の『河北新報』は「不逞鮮人一味 東北に入り込む 東京から撃退され爆弾を携帯して」(9月4日付夕刊)と報じました。このデマに恐怖した仙台の自警団は武器を持ち、仙台駅に列車が到着するたびにホームに殺到し朝鮮人を殺そうと殺気立っていました。メディアによる報道は、住民の朝鮮人に対する敵意・殺意を掻き立てていったのでした。
メディアの責任は、デマと虐殺を広げていったことのみではありません。新聞は虐殺発生後も、政府と共に朝鮮人犯罪が事実であるかのような報道を事後的に続けました。また日頃から朝鮮人に対する差別的な報道や、日本帝国主義を賛美する報道により、日本人の中に「不逞鮮人」観や大国主義的優越感を植え付けデマをきっかけに朝鮮人迫害が行われたのでした。
Q1−5.関東大震災時の朝鮮人虐殺と朝鮮植民地支配はどのような関係があるのですか?
A.関東大震災時に大規模な虐殺がなぜ起こりえてしまったのか理解するためには、植民地支配について考える必要があります。当時の日本では、朝鮮人を殺してもかまわないという「不逞鮮人」観や差別意識が強く存在し、侵略の過程で朝鮮植民地戦争の経験を蓄積し、民族差別と迫害を繰り返してました。朝鮮侵略・植民地支配の下で虐殺は発生したのです。
当然、日本帝国主義による他民族支配という構造を相対化したり矮小化しては、「誤殺」された日本人マイノリティ等の被害の根本原因をも考えることはできません。
関東大震災・朝鮮人虐殺研究の第一人者である姜徳相氏は、①関東大震災時・朝鮮人虐殺、②社会主義者10名が拷問を受けて殺害された「亀戸事件」、③大杉栄といった社会主義者と家族が殺害された「甘粕事件」を、並列して「三大テロ事件」として一括りに論じることを問題にしました。
「〔亀戸事件・甘粕事件が〕官憲による官憲の権力犯罪であり、自民族内の階級問題であるに反し、朝鮮人事件は日本官民一体の犯罪であり、民衆が動員され直接虐殺に加担した民族的犯罪であり、国際問題である」からです。姜氏は「異質のものを無理に同質化し、並列化することは官憲の隠蔽工作に加担したと同じである」と指摘し、「日本での問題の取り上げられ方は事件後からこんにちまで、著者〔姜氏〕が強調したと逆の順で関心が強いようである」と日本人の態度を批判したのでした(『関東大震災 新装版』、207-208頁)。
2.朝鮮人虐殺の歴史的背景
Q2−1.1923年の関東大震災時の朝鮮人虐殺の背景にはどのようなことがあったのでしょうか?
A.日本軍による東アジアでの最初の本格的な軍事的民衆迫害は、朝鮮農民が蜂起し日本軍と戦った甲午農民戦争(1894-95年)のときに起きました。日本軍は、「悉く殺戮すべし」(川上操六兵站総監)という命令の下、蜂起した3~5万人の朝鮮農民を虐殺しました。
また、日本の朝鮮に対する侵略・植民地化に反対するために、朝鮮で抗日義兵戦争(1907-15年)が展開されるや、数万名が虐殺されました。日本の朝鮮植民地化と支配の過程でも多くの朝鮮の人々が殺されます。挙族的独立運動であった三・一運動(1919年)に際し、日本は朝鮮各地に憲兵・軍隊を配置し徹底的な軍事的弾圧を行い、死者は7600人余り、逮捕者は5万人近い数に上り過酷な拷問も行われました。
日本軍隊や警察の民族運動への弾圧、虐殺をはじめとする朝鮮植民地戦争の経験が関東大震災時に戒厳令のもとで発揮されることになったのでした。関東大震災時の朝鮮人虐殺は日本の朝鮮に対する侵略、植民地戦争の経験の延長上に起きたものでした。
Q2−2.朝鮮人虐殺を正当化する意識や見方はどのように形作られていったのですか?
A.虐殺を正当化する意識、朝鮮人を殺してもかまわないという「不逞鮮人」観は日本の侵略・植民地支配の過程で強化されていきます。朝鮮植民地化と戦った義兵戦争の時期に、日本の新聞は朝鮮を野蛮・事大主義などと称する蔑視論・朝鮮支配正当化論を展開し、徐々に「不逞鮮人」観、「暴徒殲滅論」を支持するようになります。
三・一運動の時期以降の新聞でも、独立運動に対して陰謀、暗殺、放火、強盗といったレッテル貼りが顕在化します。たとえば、「朝鮮独立運動の陰謀」(『読売新聞』1919年11月28日付)、 「不逞鮮人が独立陰謀の顛末 暗殺放火強盗を恣にす」(同1920年8月18日付)などです。
こうして朝鮮での植民地戦争に直接参加した軍人だけでなく、報道機関などを通じて一般庶民の中にも「不逞鮮人」観が芽生え始め、これが後の関東大震災における官民一体の朝鮮人虐殺へと繋がることになりました。
Q2−3.当時、在日朝鮮人はなぜ日本にいたのですか?
A.「韓国併合」以前も1880年代から炭鉱・鉱山などに、日清戦争終了以後には鉄道・道路工事などに朝鮮人労働者が従事しました。「韓国併合」後も、第一次世界大戦以後の日本資本主義の発展による日本国内の労働力不足と、1910~1918年にかけての土地調査事業による朝鮮農民の貧窮化などを背景に、その数は更に増加しました。
企業が低賃金の朝鮮人を雇用し日本人未熟練労働者の雇用に替えた政策により、日本人未熟練者は在日朝鮮人を市場での競争相手と見做し、差別意識をさらに高めることとなり、関東大震災時の朝鮮人虐殺に加担する原因の一つとなりました。
Q2−4.虐殺前、当局は在日朝鮮人の運動をどのようにみていたのですか?
A.1919年3月1日に始まり朝鮮全土、日本国内、世界各国で展開した三・一運動は日本の支配者に衝撃を与えました。三・一運動以前から在日朝鮮人運動を担った朝鮮人留学生の活動はより一層活発になり、中には、日本政府の監視・統制を撥ね退けるため留学生監督部寄宿舎から脱退する者や母国へ行き独立演説する者、在日朝鮮人労働者の中に入って独立運動の民衆化を図る者もいました。三・一運動後の在日朝鮮人運動の特徴は、社会主義運動、労働者の運動が強まり、特に中津川朝鮮人虐殺事件以後、日本人社会主義者との間で連帯指向が発生したことでした。
警視庁は、両者の間で連携が生まれ、「植民地の解放」が第四回メーデー(1923年)のスローガンの一つとして掲げられようとしたことに警戒を抱き大弾圧を加えました。このような大弾圧が関東大震災時における朝鮮人と日本人社会主義者に対する虐殺の前史となりました。
※中津川朝鮮人虐殺事件
1922年夏、新潟県中津川上流において建設中だった水力発電所の工事現場で奴隷労働を強いられた朝鮮人労働者が虐殺される事件が発生しました。800名以上いたとされる朝鮮人労働者のうち100名程の虐殺を含む犠牲者がいたという証言が残されています。
3.朝鮮人虐殺のその後
Q3−1.朝鮮人虐殺やその犠牲者は、その後どのように扱われたのですか?
A.朝鮮人暴動の実在が怪しまれ虐殺の国家責任が問われかねない状況のなかで、官憲らは9月5日に「朝鮮人の暴行又は暴行せむとしたる事実を極力捜査し、肯定に努むること」という方針を決定します(警備部「<参考>朝鮮問題に関する協定 極秘』、『関東大震災と朝鮮人』80頁)。虐殺発生後に朝鮮人暴行の事実をこれから探し出そうとしたのです。
虐殺に対する国家の事後責任として、①朝鮮人「暴動」の捏造、②見せかけの裁判、③朝鮮人死体の隠匿、④自らの責任を隠す発言や歴史書の編纂、⑤抗議と追悼のための運動弾圧などの問題を考える必要があります。
実際に旧四つ木橋に遺体を埋まっていると聞いた遺族らが発掘を試みましたが、見つかりませんでした。前日の夜警察によって遺骨が掘り出されていたためです。遺体は遺族に引き渡されることもなく、日本人とも朝鮮人ともわからないように処理されました。
虐殺に関して裁判も行われましたが、被告人の多くは執行猶予となり実刑を科せられた者は少数でした。国家責任に関しては排除され、自己保身を図る見せかけの裁判だったのです。
Q3−2.犠牲者や虐殺の実態に対する調査はどのように始められたのですか?
A.朝鮮人虐殺の後、朝鮮人らは虐殺の実態調査を始めました。朝鮮留学生らは1923年10月上旬に「在日本関東地方罹災同胞慰問班」を組織し、調査委員らはしらみつぶしに関東一体を調査しました。そして、調査結果は1923年12月5日付『独立新聞』に報じられ、地域ごとの詳細と共に、その総数は6661名と伝えられました。
その報告書によると、死体を発見できなかった人数は3240名にも達しました。犠牲者の半分は死体さえもみつけることができなかったのです。国家責任を否定しようとする官憲による死体の隠蔽工作と調査活動、真相究明に対する厳しい取り締まりがあったからです。
「同胞慰問班」はそれを「屍体さえも探せなかった同胞」と表現しました。この一言のなかには、迫害され、殺され、存在さえ消された朝鮮人の痛みや苦しみ、悲しみが凝縮されていました。
朝鮮本国でも「在京日本留学生会」(9月4日)、「在東京罹災朝鮮人臨時救済会」(9月8日)などが作られ、救援と調査のための動きが生まれます。一方、朝鮮人にとっていつ殺されるかわからない状況であったため、虐殺から生き延びた多くの朝鮮人は朝鮮への帰還を余儀なくされました。1923年9月から帰還者は急激に増加し、12月までの4か月の間に約4万人が朝鮮へ帰還しました。
Q3−3.虐殺に対する抗議、責任追及はどのようになされたのですか?
A.朝鮮人虐殺事件後、在日朝鮮人や虐殺に抗議する日本人労働者、知識人たちによって、抗議活動や朝鮮人犠牲者追悼の運動が日本各地で展開されました。
たとえば、在日朝鮮人の社会主義者らで結成された「北星会」は1923年11月末には、①政府に虐殺の真相発表を求めること、②虐殺への抗議を提出し、遺族の生活権保障を要求すること、③朝鮮及び日本の主要都市において演説会を開催し檄文を配ることなどを決議しました。
在日朝鮮人らは虐殺の再来を彷彿させる民族差別・迫害が続くなかで日本の社会主義団体、労働団体などと提携しつつ、官憲の厳しい監視と弾圧のなかでも粘り強く真相究明、責任追及のための活動を続けました。1924年9月13日に開催された追悼会では、参加者らが「私共は何等かの手段で復讐せねばならぬ」、「千枚や二千枚の追悼文で何の効果があるか。吾は同胞の霊に答えるような事をやろうではないか」などと叫び、数百名規模の警官隊に中止させられるといった事件もありました。
しかし、1930年代頃からさらなる厳しい弾圧により、朝鮮人団体のこうした活動は壊滅状態になりました。戦前の日本は徹底的に朝鮮人虐殺の事実隠蔽を行おうと画策し、様々な抗議活動を潰したのでした。こうして朝鮮人らの責任追及、真相究明活動は解放後に引き継がれていくことになりました。
4.くり返される虐殺と迫害
Q4−1.関東大震災時の朝鮮人虐殺は、震災の混乱のなかで起きてしまったものではないのですか?
A.朝鮮人に対する虐殺や迫害は、関東大震災後も今日に至るまでくり返されることになります。震災後の1925年10月には、小樽高商の軍事教練で、無政府主義団、「不逞鮮人」が暴動を起こすといった想定文が作られ、これに在日朝鮮人が「吾々には一昨年震災当時の記憶が猶鮮である」と抗議する事件が起きます。
また、1926年1月、三重県木本町のトンネル工事現場において、朝鮮人労働者2名が、頸部を刀で切られ、射殺されました(木本事件)。この事件も、「朝鮮人による暴動」という流言飛語を恐れた日本人が引き起こしたものであり、自警団も組織されました。1932年5月には岩手県の鉄道工事現場にて、朝鮮人3名が虐殺され、数十名の負傷者をだすといった虐殺事件も起きました(矢作事件)。
このように朝鮮人に対する迫害・虐殺は、震災時の混乱のさなかに起こった偶発的なものではなく、日本帝国主義が他民族を支配する植民地支配の過程でくり返されてきたものでした。
Q4−2.関東大震災時の朝鮮人虐殺から何を問われなければならないのでしょうか?
A.日本の近現代の歴史、そして今日の日本社会を考える上でも関東大震災・朝鮮人虐殺は重要な意味を持ちます。虐殺から40年に際して発刊された、朝鮮大学校編『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』(1963年)は、次のように指摘しています(15頁)。
「政府の政治的自由の全面的弾圧と人権蹂りん政策にたいして何らの抗議すらも行わず、少数の良心的代議士を除いては政府の責任追及はおろか、むしろ治安維持令の承諾を与え、治安維持法公布への道を許した。…日本の多くの学者、文化人は帝国主義の民族排外政策にたいしてその本質を究明することができず、…それは支配階級の植民地主義や民族排外政策に協調する結果となった。…このような弱さがファシズムの侵略戦争に抵抗できず、かえってそれにまきこまれた結果となった」
日本の人々は朝鮮人を虐殺し、植民地主義や民族差別・迫害に協調し続け、その思想に十分に対抗しえないまま、1930年代以降の中国侵略、アジア太平洋戦争に突入していったのです。こうした背景の下、1930年代以降、中国東北部を中心に展開された抗日運動に対しても徹底的な弾圧が行われ、抗日軍に加え朝鮮人集住区に対する虐殺も行いました。自らの生存や生活、権利を守ろうとした多くの朝鮮人らは殺されていったのでした。
解放後もこれは変わっていません。1948年には民族教育弾圧に抗議する闘いの過程で、警官の暴行や銃撃によって在日朝鮮人が殺されます。また今日に至るまで、「おまえ、朝高生か、朝高生など殺してやる」などとして朝鮮学校の学生らが暴行・殺傷される事件は繰り返し起きてきました。実際にこうした事件を目撃した在日朝鮮人は、「朝鮮人はおちおち道も歩けない。自分はかの関東大震災の恐怖が、再びやってきたようで、背すじの寒くなる思いをおさえきれない」と証言を残しています(在日朝鮮人の人権を守る会編『在日朝鮮人の基本的人権』、358-360頁)。
私たちは、関東大震災・朝鮮人虐殺を通じて、他民族に対する侵略・支配・迫害の歴史・現在と向き合わなければなりません。
Q4−3.朝鮮人に対する殺害や迫害は戦前のことではないですか?
A.日本がアジア・太平洋戦争に敗れた1945年8月15日、朝鮮は長きにわたる植民地支配から「解放」されました。朝鮮半島では日本による支配構造が清算されぬまま南北は分断され、1950年6月25日に戦争は全面化します(朝鮮戦争)。
この戦争で日本は、アメリカの「基地国家」として、「国連軍」向けの武器の生産・供給、兵士・物資の輸送に加え、非公式の日本人の戦闘参加、戦車揚陸艦の日本人船員の参加、機雷除去などを通じて朝鮮戦争に参戦しました。戦争によって壊滅寸前だった工業を復興させ、国際社会復帰への足がかりとしました。日本から出発した兵士や武器によって、戦争の停戦前まで数多くの朝鮮人のいのちがうばわれました。100年以上、朝鮮人の苦痛は癒えないままです。
日本政府は、朝鮮人に対して賠償をしていません。1965年に国交を樹立した韓国に対して、政府として正式な賠償を支払っていません。また共和国に対しては、1990年、自民党・社会党、朝鮮労働党合名の「三党共同宣言」のなかで「三党は、過去に日本が36年間朝鮮人民に与えた大きな不幸と災難、戦後45年間朝鮮人民が受けた損失について、朝鮮民主主義人民共和国に対し、公式的に謝罪を行い十分に償うべきである」と発表したものの、こんにちまで、日本政府としては適切な謝罪も賠償も行なっていません。それどころか、経済制裁や孤立圧殺政策により、朝鮮人に対する不幸・災難、損失をさらに過酷なものにしています。
Q4−4.「歴史を繰り返してはならない」と聞きますが、いま実際に日本で「虐殺」が起きるとは思えません。
A.共和国の人々に対する殺害の煽動や事件は度々起きます。2017年9月23日に麻生太郎副総理は、「北朝鮮有事」に際して共和国からの難民を「射殺」することも含め検討することを示唆する発言を行いました。また、2018年2月23日には、在日本朝鮮人総聯合会中央本部の門扉に五発の銃弾が撃ち込まれるというテロ事件も発生しました。
こうした朝鮮人殺害を起こす可能性のある発言、行動に対して、日本社会でそれを問題にしたり、抗議する声は大きくありません。たとえば、石川県の谷本正憲知事(当時)は2017年6月21日に「兵糧攻めにして北朝鮮の国民を餓死させないといけない」などと発言し、在日朝鮮人らはこれに「関東大震災時の朝鮮人大虐殺を彷彿とさせる許し難い非道な言動だ」と抗議する事件がありました。しかしその後も、この発言が大きな影響になることもなく、翌年3月11日には知事最多となる七選を果たしています。
「朝鮮人民を迫害してはならない」、「人を殺してはならない」。こうした規範が未だに確立していないのが、私たちが生きるこの社会の現実ではないでしょうか。
Q4−5.いまの在日朝鮮人に対する差別や迫害は存在するのでしょうか?
A.在日朝鮮人に対する差別、迫害行為は、戦後も今に至るまで繰り返されています。在日朝鮮人を標的にした右翼団体や市民らによる朝鮮学校前や街頭、ネットでの迫害・殺害煽動は後を絶ちません。
また、朝鮮学校は2010年度から各種学校として認可されている全ての外国人学校を対象に含め実施されている「高校無償化」制度の対象から除外され、それに相次ぎ、地方自治体による補助金も「県民の理解が得られない」等という理由で削減され、朝鮮学校の児童・生徒、教職員の人権は脅かされています。
そのほかにも就職や住居差別、「北朝鮮バッシング」や歴史的背景に対する無理解など、日常生活のいたるところまで在日朝鮮人に対する差別は根強く存在しています。在日朝鮮人の多くは民族名(朝鮮名)ではなく、日本名を使い生活しています。多くの在日朝鮮人にとって日本社会は、民族名(朝鮮名)を積極的に名乗って生きようと思える社会ではないのです。
こういった事件や問題は最近、起こり始めた出来事と思う方もいるかもしれません。しかし、朝鮮人に対する民族差別と迫害は関東大震災・朝鮮人虐殺などの過去の出来事と切り離されているわけではなく、むしろ繋がっています。そして、その根底にはこうした歴史の未清算と歴史否定論があります。
「在日朝鮮人」という存在の形成は日本の朝鮮植民地支配に起因しています。しかし、日本では朝鮮植民地支配の責任と向き合うどころか、関東大震災・朝鮮人虐殺のような事件をも否定するような風潮さえ見られます。こういった歴史の未清算と責任の否定、歴史否定論は、在日朝鮮人に対する無知と無理解、偏見につながり、民族教育の弾圧や民族差別煽動などといった迫害に繋っているといえます。歴史の清算がされていないなかで現在の差別構造が存在します。だからこそ、これを解決するためには正しい歴史を学び、発信し続けることが重要ではないでしょうか。