証言―愼昌範

私は、一九二三年八月二〇日、日本観光の目的で、十五名の同僚と共に、下関に上陸しました。そして、関西方面を廻り、八月三〇日、東京に着き、上野の昭和館に泊りました。

九月一日、昼食をとっている最中に、地震に会いました。生れて始めての経験なので、階段からころげ落ちるやら、わなわなふるえている者やら、様々でした。

私は二回から外へ飛びおりました。一面、火の手が広がり、道もわからなくなり勿論食べ物を売っているお店などありません。そこで、私たちは向島の吾嬬町で飯場を経営している尹在文氏を尋ねることにしました。やっとの思いで、夜遅く吾嬬町へ着きましたがそこも一面火の海でした。しかし、尹氏の家附近まではまだ日が回っていなかったので、その晩は尹氏の家に泊めてもらいました。翌二日は、火の手を逃がれてあちこちと避難するのがやっとでした。兵隊の配ってくれる玄米のにぎり飯で、飢えをしのぎました。

三日の夜、九時頃になって、「津波がやってくるぞ!」と怒鳴りあう声が、あちこちで聞こえ、人々は、その辺では一番高い荒川の堤防へ避難しました。私達が行ったのは、京成電車の鉄橋のある近くでした。堤防の上は、歩くことも困難なほど避難民でいっぱいでした。私達は、いつのまにか鉄橋の中程の所まで、人波の為に押し込まれてしまいました。結局、津波はやってきませんでしたが、疲れたので私達は、その儘線路を枕にしてやすみました。

四日の朝、二時頃だったと思います。うとうとしていると「朝鮮人をつまみ出せ」「朝鮮人を殺せ」などの声が聞こえました。私には、どうして朝鮮人を殺すのか、さっぱり見当がつきませんでした。朝鮮人が悪いことをしたと云うけれど、地震と大火の中では、逃げ惑うのがやっとで、中には焼け死んだ人もずいぶんいたのです。こんな時、人間は生き延びることだけが精一杯で、悪いことなど出来る筈がありません。間もなく、向こうから武装した一団が寝ている避難民を、一人一人起し、朝鮮人であるかどうかを確め始めました。私達十五人の殆どが日本語を知りません。そばに来れば、朝鮮人であることがすぐに判ってしまいます。武装した自警団は、朝鮮人を見つけるとその場で、日本刀をふり降し、又は鳶口で突き刺して虐殺しました。一緒にいた私達二十人位のうち自警団の来る方向に一番近かったのが林善一という荒川の堤防工事で働いていた人でした。日本語は殆んど聞きとることができません。自警団が彼の側まで来て何か云うと、彼は私の名を大声で呼び「何か言っているが、さっぱり分からんから通訳してくれ」と、声を張り上げました。その言葉が終るやいなや自警団の手から、日本刀がふり降ろされ彼は虐殺されました。次に坐っていた男も殺されました。この儘坐っていれば、私も殺されることは間違いありません。私は横にいる弟勲範と義兄(姉の夫)に合図し、鉄橋から無我夢中の思いでとびおりました。

とびおりてみると、そこには、五、六人の同胞が、やはりとびおりていました。しかし、とびおりた事を自警団は知っていますから、間もなく追いかけてくることはまちがいありません。そこで私達は泳いで川を渡ることにしました。すぐに明かるくなり、二〇~三〇米離れた所にいる人も、ようやく判別できるようになり、川を多くの人が泳いで渡っていくのがみえました。さて、私達も泳いで渡ろうとすると、橋の上から銃声が続けざまにきこえ、泳いで行く人が次々と沈んでいきました。もう泳いで渡る勇気もくじかれてしまいました。銃声は後を絶たずに聞こえます。私はとっさの思いつきで近くの葦の中に隠れることにしました。しかし、ちょうど満潮時で足が地につきません。葦を束ねるようにしてやっと体重をささえ、わなわなふるえていました。しばらくして気がつくとすぐ隣りにいた義兄のいとこが発狂し妙な声を張りあげだしました。声を出せば私達の居場所を知らせるようなものです。私は声を出させまいと必死に努力しましたが無駄でした。離れてはいてもすでに夜は明け、人の顔もはっきり判別できる程になっています。やがて三人の自警団が伝馬船に乗って近ずいてきました。各々日本刀や鳶口を振り上げ、それはそれは恐しい形相でした。死に直面すると、かえって勇気が出るものです。今迄の恐怖心は急に消え、反対に敵愾心が激しくもえ上りました。今はこんなに貧弱な体ですが、当時は体重が二十二貫五百もあって力では人に負けない自信を持っていました。ですから「殺されるにしても、俺も一人位殺してから死ぬんだ」という気持で一ぱいでした。私は近ずいてくる伝馬船を引っくり返してしまいました。そして川の中で死にもの狂いの乱闘が始まりました。ところが、もう一隻の伝馬船が加勢に来たので、さすがの私も力尽き、捕らえられて岸まで引きずられていきました。

びしょぬれになって岸に上るやいなや一人の男が私めがけて日本刀をふり降ろしました。刀をさけようとして私は左手を出して刀を受けました。そのため今見ればわかるようにこの左手の小指が切り飛んでしまったのです。それと同時に私はその男にだきつき日本刀を奪って振り回しました。私の覚えているのはここまでです。

それからは私の想像ですが、私の身に残っている無数の傷でわかるように、私は自警団の日本刀に傷つけられ、竹槍で突かれて気を失ってしまったのです。左からのこの傷は、日本刀で切られた傷であり、右脇のこの傷は、竹槍で刺された跡です。右頬のこれは何で傷つけられたものかはっきりしません。頭にはこのように傷が四か所もあります。…荒川の土手で殺された朝鮮人は、大変な数にのぼり、死体は寺島警察署に収容されました。死体は、担架にのせて運ばれたのではなく…二人の男が鳶口で、ここの所(足首)をひっかけて引きずっていったのです。私の右足の内側と左足の内側にある、この二か所の傷は私が気絶したあと警察まで引きずっていくのにひっかけた傷です。…九月末になって、自分で歩ける者は千葉の習志野収容所に移され、私のような重傷者は残されました。」

【出典】朝鮮大学校『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』(1963年)